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牛窓港の「みなと文化」 
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寛永年間(1624~44)牛窓村は藩から「在町」に指定されて、岡山城下と同じように商売自由とされている。岡山藩は、牛窓を海への備えと幕府役人や諸大名の接待港として位置づけ、積極的に港の整備を行った。まず、幕府の意向を受けて、寛永17年(1640)に「異国遠見番所」を設置して外国船の通行に備えるとともに、牛窓港の出入港事務や往来船を検察した「瀬戸番所」(船番所)、幕府や諸大名の通行船の警固のために邑久郡内の各浦々の「加子(水主)」を徴発する「加子番所」を置いた。さらに、寛永19年(1642)には、それらを統括し牛窓の治安・警察をも担当する「牛窓湊在番所」を設置。そして、藩主の休憩所兼接待所として「御茶屋」が置かれていたが、寛文9年(1669)に大規模な改築を行い、面目を一新している。延宝元年(1673)には、港の東側入り口にあたる牛窓瀬戸に灯籠堂を築いて付近の航行の便宜を図った。そして、元禄8年(1695)全長373間(678m)におよぶ「一文字波戸」を築造し、「波止の内船掛り吉」の良港となった。さらに、岡山城下から牛窓までを結ぶ牛窓往来が整備され、特別に飛脚制がしかれていた。 


町並みの整備と牛窓港の繁栄 

江戸時代の牛窓村の町並みを表す言葉に「三町三ヶ浦」がある。岡山藩は、中世の「牛窓保」を港としての負担を考えそのまま一村とした。関町・西町・東町の「町分」と枝村であった中浦・綾浦・紺浦の「浦分」である。関町と中浦との境となっていた本蓮寺下には、町分と浦分を仕切る「町口関貫」と呼ばれる木戸と番所が置かれた。西国大名や朝鮮通信使などを饗応する際の上陸に使われる「」大雁木は、日常では一般民衆は使用できなかったと伝えられている。明暦3年(1657)~寛文2年(1662)にかけて大浦湾が開発されて大浦新田村ができ、ついで寛文元年には東町地内の裏町(奥之町)・出来町、さらに寛文11年(1671)には生田の造成が行われて町分が東側に大きく拡張され、材木問屋や船宿、船大工などが集住した。江戸中期以降は、関貫外の中浦以西の浦分にも商人が増え、牛窓往来沿いに商家が立ち並んで発展した。 

西廻り航路が開かれ商品流通が拡大されてくると、牛窓港は廻船の寄港地、あるいは領内産物の積み出しや他国産物の移出港として繁栄していった。繰綿問屋・他国米商・両替商・材木商などが軒を並べて問屋稼ぎで賑わった。特に材木商は九州・四国地方へ「牛窓(樵)」を派遣して山々から材木を切り出し、良質の材木を仕入れたため造船業も成立した。牛窓船籍の廻船の活動も活発であり、藩の船手の記録によると、延宝元年(1673)には日向国油津(宮崎県日南市)を出港し、「舟材木」を積んだ牛窓村権助船が日向国細島沖で破船している(池田家文庫「御留帳御船手」延宝元年)。また、延宝5年(1677)には助三郎船が江戸からの帰路、伊豆小浦沖(静岡県南伊豆町子浦)にて大波にあい「御家中之荷物」121個の うち21個が「濡荷物」となった(「同」延宝5年)。さらに、佐渡国加茂郡真更川村(新潟県佐渡市)に入港した廻船を書き留めた「諸廻船入津留帳」(土屋三十郎家文書、享保10年~寛政10年までの74年間を記載)によると、備前国の船15艘のうち牛窓船が7艘・尻海船が6艘を占めており、船の大きさも13~16人乗の大規模廻船であった(上村雅洋『近世日本海運史の研究』)。このほか石見国浜田外ノ浦(島根県浜田市)の廻船問屋清水屋に残る『諸国御客船帳』(清水三次郎氏所蔵文書、延享元年(1744)~明治34年(1901)まで記載)によると、明和3年(1766)~安永8年(1779)の間に木屋・神坂屋・板屋の船合計4艘が記されているなど、牛窓の船は遠く日本海側や太平洋側の航路でも船稼ぎしていたことがわかる。 

鉄道開通で衰退する明治・大正時代の牛窓港 

明治以降牛窓港は、岡山県下の主要港として大きく発展した。藩政時代のように藩から様々な規制を受けることがなくなったからである。明治13年(1880)の『岡山県統計表』には、商売戸数85戸、商船出船1,097隻、入船21,600隻、物貨出額80,000円、同入額400,000円、定繁船250隻が記載されている。船舶出入数では2位、物貨出入数でも3位を占めていた。しかし、牛窓港周辺部に鉄道が開通しなかったため、岡山県下の鉄道網の形成とともに徐々に地位を低下させていった。山陽鉄道(現山陽本線)が開通した明治23年(1890)には、県下主要移出地中7位、大正期以降は県下上位10位以内には登場しなくなる。旧牛窓町役場文書の統計史料を分析すると、明治40年と大正8年が牛窓港の移出入のピークで、それ以外は低下したままである。特に材木だけを残して、江戸期の特徴であった中継地的な性格はほとんどなくなっている。明治後期~大正期にかけて牛窓港へ支線を延ばす軽便鉄道が度々計画されたが、いずれも鉄道計画は実現されることなく終わった。 

牛窓港の文明開化は、第3代町長を務めた香川真一(1835~1920)の功績によるところが大きい。彼は岡山藩士の家に生まれ、明治2年(1869)に岡山藩議長、2年後には岩倉具視の一行に従って欧米を視察、明治11年(1878)には大分県令に就任したが、翌年県令を辞して牛窓村に転居し、幅広い見識を生かして岡山県の近代化を政界・実業界の両面から牽引していった。明治36年(1903)~大正6年(1917)までの長きにわたり牛窓町長を務めたが、私財を投げ打って警察署や町役場、牛窓銀行本店などの建築を手がけ、近代的社会基盤を整備していった。 

観光産業へと傾倒していく昭和・平成時代の牛窓港 

昭和初期には浦分の埋め立て開発による町の大規模な拡張整備が行われ、綾浦を中心に専売局の倉庫群や水産試験場、あるいは工場の建設などが行われた。さらに戦後の高度成長期は、集中的に牛窓港の港湾施設の近代化が図られた。昭和31年(1956)には鉄筋コンクリート製の県営桟橋(綾浦荷揚場)、同35年(1960)には物揚場新設(関町)、同38年には牛窓西港の改修工事などが着手されたが、衰退化には全く歯止めがかからなかった。昭和36年(1961)には入港船舶数が59,000隻あったものが昭和62年(1987)には900隻となり、さらに平成19年(2007)には147隻まで激減した(『岡山県統計年報』・『県政のしおり』)。 

牛窓町の観光産業への転換は、すでに戦前期の昭和9年(1934)に瀬戸内海国立公園に選定された頃から見られはじめるが、港と造船をはじめとする港関連産業の衰退からより顕在化することになった。昭和39年(1964)に牛窓町と阪神電鉄との間で観光開発協定が結ばれ、以後積極的に観光産業へと転換していった。昭和51(1976)にはギリシャのミティリニ市と姉妹都市縁組みを結び、牛窓オリーブ園と瀬戸内海の多島美を「日本のエーゲ海」として売り出している。さらに、平成3年(1991)には県営牛窓ヨットハーバーやマリンリゾートホテルなどを誘致するなどしたが、観光客は平成6年(1994)の649,500人を最高に減少し続けており、先年の阪神電鉄の撤退問題などもあって、もう一度地域の歴史・文化などを生かした街づくりを再構築しなければならない時期になっているということがいえるだろう。 

牛窓港〔金谷 芳寛〕 より抜粋